上野広小路に面して上野の杜へと誘う上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、三つの橋が架けられていた。上野の山を訪れる人々が渡ったその橋は「三橋」と呼ばれた。現在ではもう橋は残っておらず、三橋の名前は上野広小路にある老舗の甘味処「みはし」にその面影を残すばかりであるが、大正時代に取り払われるまでの二百年以上にわたって上野の山の玄関としてその橋は広く知られていた。 >詳しく見る
上野広小路に面して上野の杜へと誘う上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、三つの橋が架けられていた。上野の山を訪れる人々が渡ったその橋は「三橋」と呼ばれた。現在ではもう橋は残っておらず、三橋の名前は上野広小路にある老舗の甘味処「みはし」にその面影を残すばかりであるが、大正時代に取り払われるまでの二百年以上にわたって上野の山の玄関としてその橋は広く知られていた。 >詳しく見る
明治初年の廃仏毀釈により、鳥居がなくなって、その場所に、大正3年(1914)から昭和20年(1945)まで、わずか30年ほどだが、「天龍門」という中国風の門が立っていた。そして、不忍池のまわりは「春は桜、夏は蓮、秋は月、冬は雪」、自然が楽しめる、また弁天様のご利益の求める場所から、もう一種のハレの場へ変貌していた。それは、博覧会という国家事業の中で行われていた。弁天島は博覧会の会場の一部として工事などを取り込み、弁天堂と新たに作られた天龍門が浮世絵や絵葉書にもしばしば登場する。 >詳しく見る